それは、物語の1ページであるかもしれない。都市のビル群のきらめきかもしれない。
ある人には、競技場で駆けるときの身体感覚であったり、夕食のスープのあたたかさであったりするかもしれない。
「人は感動することがないと生きていけない」
そう話すのは、いなべ市大安町在住の塚本剛正さんだ。造園会社勤務、樹木医、ヒマラヤ登山記録保持者など多くの顔を持つ。「とにかく自然が好き」と言う。日に焼けた肌がそれを証明する。塚本さんはこれまで何度も、自然の中で大きく心が動く経験をした。
愛知県稲沢市出身。子どものころ、親との複雑な関係があり、優等生になるよう自らを仕向けていた。勉強は嫌いではない。しかし、本心と向き合うことがない。中学3年生で自分がわからなくなった。
勉強が手に付かず、「悲しい」「嬉しい」といった感情が枯渇していた。
「高校へ入学しても、学ぼうという気力がわかなかったんです。そんなとき、友達が登山に誘ってくれました。ちょうどこの辺ですよ。鈴鹿山脈に登りました」
自然に身を置くと、感情がよみがえった。
高校を出て、東京で新聞奨学生として予備校や専門学校に通う日々を送る。小説家志望者、旅し続ける人などいろいろな目的を持つ人々と出会った。
北海道を長期旅行もした。東京農業大学で畜産を学ぶ学生や、北海道大学教授の家族と知り合った。自然を学べる大学があることを知り、学問を身近に感じるようになった。
育った場所を離れ、外の世界を知ると、少しずつ前向きになり、自分のしたいことがわかっていく。
旅から戻ると2か月ほど受験勉強し、東京農大に合格した。
研究テーマはマングローブによる砂漠の緑化。探検部の活動にも熱心だった。当時は少なかった北アルプス・中央アルプス・南アルプスの縦走、冬の南アルプス単独登頂などを達成。
そして、仲間たちとヒマラヤの未踏峰を目指した。1983年にKR4(※)と1995年にKR5(※)での登頂記録を持つ。かつて無くした感情を蘇らせた経験から、生と死の極限状況に惹かれた。
山や森、樹木の世界に浸るうち、「利益よりも面白い仕事をしたい」と思った。卒業後はペルシャ湾に接する都市カフジに。砂漠が広がるこの地域も極限状況のひとつだ。マングローブによる緑化の植栽実験に研究者として参加した。
海水で育つマングローブは、海側から植栽すると徐々に砂漠が緑化する。海の近くのほうが育ちやすい樹種、陸にいくほど育ちやすい樹種がある。住み分けされていることが明らかだ。しかし、住み分けの基準が分からなかった。
満潮時に土中の水分量を測る実験を続けた。あるとき、海水に地下水(淡水)が入り込み、海から遠いほど水の塩分濃度が下がっていることを発見した。樹種の住み分けと、塩分濃度の違いが結びつく。誰も知らない秘密を手にした瞬間、塚本さんを祝福するように夕陽が当たった。
「神様ではないが、森をつくっている感じ」
自然に救われた塚本さんが、森を生み出していた。
帰国後は東京農大大学院の修士号を取得。造園会社に就職し、沖縄宮古島で熱帯植物の取集をした。いなべ市に転居してからは、自営で植物による壁面装飾やダム湖の緑化に関する技術開発などに携わった。10年ほど工場に勤め、仕事で自然とのつながりが薄れたこともあった。
ただ、途切れることなく、生活は自然とともにあった。子どもたちが小さいころは宇賀渓に一緒に遊びに行った。現在でも、休日に妻と登山を楽しむ。「山に入ると、嫌なことや大変なことを全部忘れる。普段の生活と全然違う」。
藤原岳、伊吹山……気軽に山に行けるいなべの環境がうれしい。
「今、やっと造園会社でやっている。植物が性にあっている。これからも自然と関わっていきたい」
現在の勤務先では、ささしまライブ駅の広場工事、あま市の森が丘公園の整備や植栽、樹木調査を行っている。昨年取得したばかりの樹木医の資格も活かしたい。生き方の中で、環境にどう関わっていくか考える。
興味や愛着、執着を超え、自分の一部のように感じられる存在。それに気付く人はどれだけいるだろう。そのうちどれだけの人が、その存在と関わり続けることができるだろう。
塚本さんは、自身と分かちがたいものを見つけ、今もつながっている。
生涯かけて影響を及ぼしあう何かとの出会いが、きっと私たちにもある。
樹木に向きあう塚本さんは、苦楽をわかちあった友と対話しているようだ。
心が動いた瞬間。自分にとって本当に大切なもの。塚本さんの熱を秘めた静かなまなざしは、それを思い出させてくれる。
※…それぞれヒマラヤ山脈内の山名。KR4は標高6,340m、KR5は標高6,258m。共に、インドのLahaul(KR)山域。
【Credit】
〈取材撮影ご協力〉
塚本剛正さん
〈撮影・取材〉
いなべ市役所 農林商工部商工観光課
〈取材日〉
令和3年4月